2007年06月05日

田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致
別に将軍塚というのもあって田村麻呂の墓ではないかと言われていましたが、このたび清水寺縁起と条里図を照合させて、装飾品の質も考慮に入れて坂上田村麻呂の墓と判断したようです。
田村麻呂は娘を皇室に入れてますし、晩年はかなり厚遇されておりました。

坂上田村麻呂は武士の中では伝説化してまして、神様のような存在ですが、実は坂上田村麻呂は初代征夷大将軍ではありません。
初の征夷大将軍は大伴弟麻呂です。その前にも征東大使とか名前が色々ありました。
征夷大将軍は臨時職で、鎮守府将軍が常任です。
藤原秀衡が鎮守府将軍になってましたので、源頼朝はその上の臨時職である征夷大将軍を持出し、いつの間にか武士の棟梁の最高職になったのですな。

この時期の国史は散逸してしまい抜粋の写しである日本紀略で概要を知るのみです。
重要なことが多い割に教科書で平安初期の部分が軽く流されるのは、公式の文字資料が少ないためで不確定要素が多くまだ謎な部分もあります。特に都の移転に関して政情不安定な部分が多く、多くの事件が発生していました。
ミステリー好きな歴史愛好家は捏造とか権力者による歴史の隠蔽とか言ってますが、実際問題史料自体が不足しているのが実情です。

一昔前の歴史家は文字資料を漁る事でしたが、今では考古学的な手法や殆ど理工系な手法、DBの構築など理系化が進んでいます。今後の再調査などで新発見があるかもしれませんね。

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この記事へのコメント

1. Posted by なむ   2007年06月05日 20:20
1200年の時を経てわかってくるもの、なんだかワクワクしますね!調査の技術が進んでくると、また新たな発見もあるかもしれません。文献資料でアテルイたちを追いかけるのは限界が・・・^^;
今年の高校の教科書にはアザマロの名前が太字表示されていて嬉しくなりました。
2. Posted by おとみ   2007年06月05日 20:45
アテルイの処刑場がどこかにしても、文字や現在地名で探すのではなく、古道や係留地になりそうな場所というのがあります。河内から京都に抜ける道があり、陸奥にも抜ける道がある、そういう場所が有力になると思います。
キリストの墓みたいに、ある日偉そうな人が来て「ここはキリスト墓だ」と言ったら、知ったかぶり憶測が無いはずの伝説を作ってしまう。
市町村合併や新興住宅地で古い地名が無くなっていき寂しいです。

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