歴史
2007年03月27日
2007年03月13日
ワイワイマップに、ほぼbuzzmap入力分移植完了。
うろ覚えなため、場所を確定するために発掘情報をぐぐってみたが、大体の発掘報告書って詳細な住所が無いのと、掲載地図が汚くて非常に詳細な地図か広範囲な地図しかなくて、場所特定が道路の位置関係や地形を読みながらしなくてはいけない。
しかも上が北とは限らない。
紙の地図なら回しながらみたり、近寄って見ればいいが、デジタル地図は回せないし縮尺が変わると道路が消える。
地図サービスで大字小字を入力して検索して大体の位置をおさえ、周辺の特徴ある地形や公共の建物、幹線の位置関係で、なんとかポインティング。
一昔前は、地図をトレースしてポインティングをして自前の地図を作成したが、地名や道路、発掘や研究も日進月歩で変化していくので、5年も経てば陳腐化してしまう。
地図サービスなら地名や道路が変わっても変更してくれるし、座標は不変でコメントだけ書き換えれば良いことになる。
是非とも考古学者や民俗学者は、今までの研究成果を地図サービスと提携して、緯度経度情報をつけてデータベース化し、一般公開してほしいなり。
まだ100ポイントぐらい未登録があるなぁ。
うろ覚えなため、場所を確定するために発掘情報をぐぐってみたが、大体の発掘報告書って詳細な住所が無いのと、掲載地図が汚くて非常に詳細な地図か広範囲な地図しかなくて、場所特定が道路の位置関係や地形を読みながらしなくてはいけない。
しかも上が北とは限らない。
紙の地図なら回しながらみたり、近寄って見ればいいが、デジタル地図は回せないし縮尺が変わると道路が消える。
地図サービスで大字小字を入力して検索して大体の位置をおさえ、周辺の特徴ある地形や公共の建物、幹線の位置関係で、なんとかポインティング。
一昔前は、地図をトレースしてポインティングをして自前の地図を作成したが、地名や道路、発掘や研究も日進月歩で変化していくので、5年も経てば陳腐化してしまう。
地図サービスなら地名や道路が変わっても変更してくれるし、座標は不変でコメントだけ書き換えれば良いことになる。
是非とも考古学者や民俗学者は、今までの研究成果を地図サービスと提携して、緯度経度情報をつけてデータベース化し、一般公開してほしいなり。
まだ100ポイントぐらい未登録があるなぁ。
2007年02月16日
so−netの地図サービスbuzzmapを使って、史跡マップを作ってる最中なのだが。
まず登録でつまづく。
なんかおいらのメールアドレス、info@xxだとはじかれるようだ。
昨年メールサーバが更新になっていきなりスパムが増えたので、昔の着信拒否フィルタが全部無くなって、新しい着信拒否フィルタになったはずなのだが。
Webmail(β版)で迷惑フィルタに引っかかったメールが見れるのだが、そこに無いのだ。
昔のフィルタが生きてて、受信トレイに入らないらしい。
Webmail(β版)で古いフィルタは見れないし…。
結局携帯アドレスで登録。
とりあえず衣川エリアを登録してみたが、激重!!
東北史跡マップ
暇を見て追加します。
まず登録でつまづく。
なんかおいらのメールアドレス、info@xxだとはじかれるようだ。
昨年メールサーバが更新になっていきなりスパムが増えたので、昔の着信拒否フィルタが全部無くなって、新しい着信拒否フィルタになったはずなのだが。
Webmail(β版)で迷惑フィルタに引っかかったメールが見れるのだが、そこに無いのだ。
昔のフィルタが生きてて、受信トレイに入らないらしい。
Webmail(β版)で古いフィルタは見れないし…。
結局携帯アドレスで登録。
とりあえず衣川エリアを登録してみたが、激重!!
東北史跡マップ
暇を見て追加します。
2006年09月14日
「平泉」を世界遺産に推薦…政府決定
中尊寺のある平泉町だけではなく、奥州藤原氏関連の寺社史蹟群を文化遺産として推薦するらしい。
前沢の白鳥柵、衣川の長者原廃寺、一関の骨寺跡…。
マイナーな話ですが来年は
カスリン・アイオン台風より60年
の年らしいです。
50年〜100年に1度の台風に備えるため、一関遊水地事業があり、その工事の過程で堤防予定地の柳之御所遺跡が発掘されたわけです。当時中尊寺別当だった小説家でもある今東光さんが署名活動を行って遺跡は保存される方向になりました。
そこから遺跡保存のため北上川の位置をずらしたりして工事は長引き、未だに完了していないのですが。
おりしもインターネットが普及し始めた時、そういう過程も知らない人が景観が崩れるとか騒ぎ出したり。(堤防がコンクリート製と思っていたらしい。しまいには、住民を移住させろとか言い出す人まで…。離れた都会に住む人の身勝手なノスタルジー。)
幸い100年に一度の台風はまだ来てませんが、もう50年超えました。
自分も景観が変わることは好ましく思っていませんが、今居る人の安全にはかえられません。仏教思想で言えば無常なのであり、今生きている人を無視し過去の形に拘り過ぎる方が流れに逆らっているかも知れません。もともと当時から河川の位置関係が変化していますし。
毛越寺なんて、自分が小さい頃は発掘が終わって整備している最中で、浄土庭園なんかは土が剥き出しの泥濘だった。今でこそ芝が青々としていい眺めになっているが。
自分は別に世界遺産にならなくても、平泉の歴史の内容は変わらないので構わないと思います。
寧ろ世界遺産になってしまうと、騒々しくなってゆっくり史蹟めぐりができなくなってしまいそうで。
2006年08月23日
ケータイ国盗りの国わけを見てて違和感が…。
葛西が武蔵国?
そういや川崎が相模だ。他にも色々(w
現在の行政区で区割りしたのね…。
江戸時代以前は隅田川から東はそこはもう下総の国。
両国橋は武蔵と下総の両国にかかる橋。
昔の国郡制(現密集地は別)で区割りしたら歴史マニアにはたまらんカモ。まぁ、携帯アンテナ配置はキャリアによって違うから厳密には難しいかな。
戦国コラムもどうやら戦国末期〜安土桃山〜江戸初期のもの、しかも江戸時代の配置でコラムが出ている。
秋田で佐竹氏を語るより、常総で語って欲しいトコロ。
宮城で伊達を語るより福島で語ったほうが面白い。
福島で蒲生を語るより蘆名氏だろう!
九戸政実の乱は青森ではなく岩手で語って欲しいトコロ。何で岩手で民話の「鬼の手形」なんだ〜〜〜
ツッコミどころ満載ですな。
葛西といえば、宮城県北〜岩手県南に勢力を持っていたのが葛西氏です。源頼朝の奥州征伐後にこの地方に葛飾郡から入った老舗です。伊達は秀吉の奥州仕置以降です。(伊達氏は元々福島山形)
奥州仕置とは、小田原攻めに参戦しなかった東北諸大名を改易したものです。
伊達氏は所領を失った葛西氏大崎氏を扇動して葛西大崎一揆がおきますが、秀吉にその陰謀をとがめられ、伊達の鶺鴒の花押の目で難を逃れ、伊達氏は葛西大崎の所領を得る代わりに米沢などの旧領を失います(おいらの先祖はこれで隠居しました)。
葛西氏、大崎氏はこれにより完全に土地を失い滅亡しますが、優秀な家臣などはその後伊達氏に家臣としてかかえられました。
大崎氏の名前は市町村合併のおかげで、旧所領が大崎市として復活しました。(古川、鳴子から大反対!)
葛西市は地名的に紛らわしいから無理でしょう。
2006年05月16日
「清水の舞台から飛び降りたつもりで」とよく言いますが、本当に飛び降りた人がいてびっくり。
しかし、江戸時代には記録に残るだけで未遂を含め234人飛び降りた人がいて、意外と生存率が85.4%と高いこと。
清水の舞台から飛び降り234件
生き伸びた人は願いがかない、死んでも極楽浄土に逝けるという風説が呼んだ信仰らしいが。
自分としては坂上田村麻呂と阿弖流為に関連してる清水寺だけに、気になるニュースでした。
ちょっとしたブームに乗り顕彰する会なるものが、こんなもの境内に建てましたが…。

今の活動状況はどんなもんですかね?
2006年02月03日
寒立馬 風雪に耐え、草をはむ 青森県東通村

今、馬というと競馬のサラブレッド(アラブ馬)が有名だが、戦国武将が乗っていた馬は写真のような小柄な馬だった。
日露戦争あたりまで馬は軍馬として重用され、体格の大きい外国馬との混血が進み原種は稀少になった。
この寒立馬(かんだちめ)は原種に近い。
平安時代〜戦国時代は東北は馬の一大産地で、金と同様高値で取引された。
奥州藤原氏が滅んだ後、鎌倉武士が東北に次々入植した中で、甲州の南部氏が糠部と呼ばれる地域に入植する。
ここは現在の一戸〜九戸の地域で、稲作には向かないこの地では、蕎麦、小麦の文化と馬の文化になる。
山梨のほうとう⇔岩手のばっと(ひっつみ)
南部煎餅は煎餅なのに小麦粉で出来ていることが特徴だ。
そしてここに多い神社が蒼前様。
初夏のちゃぐちゃぐ馬っこは、この蒼前様に馬を着飾らしてお参りするお祭りである。
少し離れるが遠野のおしら様(養蚕の神様だが男神は馬の頭を持つ。蚕の背中に馬の蹄状の文様があるからと、馬との共存生活に起因する)
とかく、奥州藤原氏、陸奥の国というと金にだけ目が行ってしまうが、馬による収入も大きいのである。
時代は下って、農耕は馬から機械になり、軍馬は戦車に置き換わると、馬を飼うことは少なくなり原種に近い馬は絶滅しかけた。
馬を飼うのは競馬場の厩舎と放牧場で、一般農家で飼ってるところは僅少となった。
時代劇などでこだわりのある監督はサラブレッドを使わず、和駒を使う。重い鎧に足の細いサラブレッドは合わないのだ。
今ではそれ専用に馬を飼い、大河ドラマロケ地やお祭りの時代行列に派遣されている。
馬の文化は岩手では脈々と継承され、地方競馬場が2箇所もある珍しい県である。(隣県に競馬場がないため、開催日の国道は大渋滞なのだが…。)
2006年01月27日
歴代で女性天皇といえば
・推古天皇(33:欽明天皇娘、敏達天皇妃)
・皇極天皇(35:茅淳王娘、孝徳天皇姉)、斉明天皇(37:重祚)
・持統天皇(41:天智天皇娘、天武天皇妃)
・元明天皇(43:天智天皇娘、草壁王子妃)
・孝謙天皇(46:聖武天皇娘)、称徳天皇(48:重祚)
・明正天皇(109:後水尾天皇娘)
・後桜町天皇(117:桜町天皇娘)
と7人いる。
女性天皇については、皇位継承者が幼い時や、政争でもめてるときにとりあえず女性を立てて政争を沈静化させるなど前例がある。
但し、これら女性天皇の子から天皇が立った例は、配偶者も皇族である場合しかない。子が無い場合、他の宮家から天皇が立っている。女系はあくまでも立たず、男系で成り立っている。
さて今もめてるのが、女系天皇を認めるか。ということである。
女性天皇が立つことは歴史上問題ないが、女系が立つということは、女性の宮家が新たに立つということでもあり、それだけ金がかかる。これは国民負担。
もう一つが、現在男系の宮家があるわけだが、女系を容認すると彼らの継承順位が下がり、存在価値が薄れていく。これは皇族方の都合だが。
一般家庭では。継ぐ資格がある中で継ぎたいものが継ぐか、親族が決めたものが継ぐか、自由だ。
なのに、天皇家の当の当事者はほぼ蚊帳の外で、外野がわいわい言うのはけっこう滑稽な話。
国民の税金がかかるからといわれればしまいだが、外野の意見より当事者の意見を優先するのが筋な気もする。継承順位を法律で決めるのもねぇ。
皇位継承は皇族会議で満場一致にならないときだけ、ガイドラインに従う程度でいいんと思うんだが。どうせ事前に皇太子を立てるんだし。
2005年12月12日
2005年12月04日
2005年11月13日

柳の御所遺跡保存をするため、堤防&4号線バイパスの計画を一部変更し、北上川を移動させる工事をしていましたが、一部景観保護運動などでもめておりました。
保護保存するとなると、さらなる変更が必要で、もう、河東にバイパスを移して河西堤防は最小限にするか、前回同様北上川をさらに東に移動させるしか…。
いつまたアイオン台風規模の災害が来るかわかりません。強引な計画通りの工事遂行もどうかと思いますが、無責任な保護運動(保護だけ叫び洪水対策の打開案を何も論じない運動)も対策を遅らせます。
放っておけば、いずれ北上川に侵食される難しいところです。
地形的に一関市から南の北上川は、県境の山間を縫っていくので川幅は狭くなる。そのため、上流で大雨が降ると逆流して溢れてしまう。
そのため前沢町箱石橋から南の河東は遊水池としてわざと溢れさせ、流入量を調整する。河西にある市街地をまもるために北上川西岸は堤防を作らざるを得ない。堤防を作るために事前調査の発掘が行われるのだが、そのたびに新発見がある地区なのだ。
この治水計画はたしか、おいらの生まれる前からあって、10数年前に西岸に隣接した柳の御所遺跡の問題がおこり5年ぐらい前に北上川を数十メートル移動させる方法でようやく保存と治水を両立させたところ。
堤防が出来るまで大雨が降らないことを祈るのみ。
2005年09月28日

小学生の頃、この子を残してが映画化され、祖母と見に行きました。
子供達は山向こうに疎開していて助かったのですが、母は自宅に居て、永井氏が治療活動が一段落着いて帰宅した時には、骨盤とロザリオだけが残っていたという。日に日に膨れる腹を抱えながら、死期が近づいているのを感じ、焦るように記憶を全て文字に遺していく。二人の幼い兄妹は遠巻きに見守るしか出来なかった。そんな子供を心配して最期に書いたのが、この子を残して。
エンドロールの画像が壮絶で、気持ち悪くなった記憶があります。生々し過ぎてTV放映できないのかしら?
隣には多くの小学生が死亡した山里小学校があります。
照り付ける太陽のもと、荷物を持っての移動で爆心地からの距離を体感。
重傷を負った被爆者の労苦はいかばかり。
2005年09月27日
2005年09月17日
2005年09月12日
元来戦いにはルールなどなく、勝つために手段は選ばない非情なものだ。
しかし、戦いが終わり平和な時代になると、戦勝者は自分の勝利を正当化したり美化するため、また軍人の地位を確保するため、戦いにルールを作る。
歴史はその繰り返しだ。
のらりくらりと明るい昼間だけ行う戦争が夜襲をかける戦争に変わり、肉弾戦から兵糧攻めなど間接戦が加わり、一騎打ちから集団戦法へ、武器も変化し接近戦から飛び道具へ、兵だけの戦いから民間を巻き込んだ戦争へ、そして大量殺戮兵器が登場し、軍を狙うのではなく無防備な一般人を狙うテロへ、その節々で「卑怯な手法」が使われ、戦いは進化したりルール化される。
大河ドラマの義経の戦略は、平家にとってはルール違反だらけだったのだ。
土豪や下級貴族が武装した、現在の暴力団に近い存在の武士が認められるためには、戦いに大義、ルールを付けて、夜盗とは違う事を示さなくてはならなかった。
一騎打ち、正面から攻める、矢合わせなどはその例だ。
しかし、義経は背後から奇襲をかけたり、舟の漕ぎ手を先に倒したり、今でこそ知略が美しく語られるが、平家の常識ではありえない行動だった。
また、梶原景時も悪役みたいに登場するが、実は梶原氏のほうが当時の感覚としてまともだったりする。
大将は後ろのほうで構えるもので、前線で戦うことは有り得ない。ましてや本隊から外れて奇襲の部隊に入るのは信じられないし、大将としては配下の命の保障をしなきゃいけないのに、退却の術を用意しないなど、有り得ないことだらけなのだ。しかも手柄を武将にとらせず、配下の海の者とも山の者とも知れぬ烏合の衆にとられたとあっては、軍監としての面目がたたない。
しかし、現在はそれらは立派なゲリラ戦法だったり、格式にとらわれない合理主義で、「武士とは死ぬこととみつけたり」みたいな美学になっている。
「見るべきものは見つ」
戦いの変化を目の当たりにし最後まで奮闘した知盛。
相手が非常識な義経でなければ勝てたんだろうな。
阿部寛の知盛カッコイイ!!
(しかし入水の時持った岩付きの碇、着水した瞬間浮いていた。ハリボテ〜)
かむろ頭にしても、丁髷でも、坊主になってもサマになる人は、やはり恰好いいなぁ。
(ほら、イケメンでも坊主にしたら格好悪い人いるじゃん。)
2005年09月05日
2005年06月04日
大河ドラマ義経の子役、木曽義高と大姫が可愛い。
頭に思い描いたまんまだ。悲しい運命知ってるだけに余計もののあわれを誘う。つ_・、)
政略結婚や人質婚は武士は当然のようにやられてた訳で、運よく睦まじく過ごした武将もいれば、上下関係で尻に敷かれっぱなしや、浮気三昧な武将もいる。
「据え膳喰わぬは武士の恥」という言葉があるが、宴会で毒が入ってるかビクビクして臆病で度胸が座らないのを諌める言葉でもあるが、裏の言葉では据え膳(誂えられた妻)を喰わぬ(ちゃんと相手をしない、正妻から世継ぎを出さない)のは武士の恥(自分の家だけでなく相手方の家にも泥を塗る行為)という意味もあるらしい。
個人同士が主体な結婚の現代と違って、家と家の繋がりを持つ為の結婚は本人の意志も関係なく結婚・離縁されるですよ。
もし、封建社会が続いてたら、父方の従兄弟は当主として嫁さんを自由に選べないんだろうなぁ。
旧家はまだうるさいところがあるんだろうな。
画面キャプチャ載せようとしたらしっかりプロテクトされてた。編集も出来ない。
そりゃ、TV画面には著作権があるから、こんなブログで流出したらねえ。