歴史
2005年05月03日
2005年03月07日
源氏の御曹司といえば源義経。
そもそも、御曹司ってのは元服後所領をもたない、曹司という部屋に棲んでる、江戸時代風にいえば「部屋棲み」のことである。(暴れん坊将軍徳田進之介は旗本の部屋棲みの設定)
分割相続から嫡子相続の形態に変わり、嫡子が家督相続するまで所領をもたないことが増えたことから、御曹司=家督継承者の意味になった。
今では金持ちのぼんぼんをひっくるめて御曹司と言ってるが、子会社でも社長になれば一応独立しているわけだから、御曹司というのは本来の意味では不適切になる。ましてや他の会社に勤めてるなら御曹司じゃないだろ〜と週刊誌の見出しに突っ込みを入れてみる。
嫡子相続になりはじめるのが丁度平安末期〜鎌倉時代。当初、子であれば同等に所領が女子にも分配されたが、所領が代を経るごとに細分化され、それが元での争いが頻発したため、嫡子相続に移行。戦国時代には下克上で庶長子と嫡次子の争いや、嫡子が出来ずお家断絶になりかけたので、江戸時代には長子相続となった。
義経の時代は、頼朝が嫡子相続を進める過渡期で、強力な中央集権支配により、一族の争いを回避しようとしている。
頼朝は義朝と熱田神宮の娘との嫡子であり、義経は妾の子、庶子であるので、同等の兄弟ではない。庶子でもそれなりの所領を与えられている奥州で成長した義経にとっては、頼朝の扱いは不条理かもしれないが、頼朝は合理化を進めている最中なので、庶子は家来扱いを徹底させようとしている。義経と同様庶子の範頼も同じ扱いだ。
でも源氏って結局血族争いで衰退してしまう。八幡太郎義家は弟と戦うはめになるし、保元の乱は親族同志で戦うし、頼朝系は公暁が実朝暗殺で途絶えるし、足利氏と新田氏は同じ系統の源氏でつぶしあったし、その足利氏は養子にした弟と息子が跡目相続で争って応仁の乱おこすし。
結局源氏は欲張りの野心家で、お互いの足を引っ張りあう一族なのか?
2005年03月03日

バイク乗り大将 出陣!
ツボにはまってます。
鵯越の逆落としとかがこれだったらと考えるだけで、笑えます。
騎馬武者が全部これだと、暴走族の抗争そのものですな〜。
もしバイクが発達してきた第二次大戦中に日本がまだ大鎧着る文化だったら、こういう姿だったんだろうか??
河北新報社の記事より
木簡に蝦夷の人名 秋田・鷹巣の胡桃館遺跡 県北まで朝廷支配か
915年十和田湖の火山噴火で埋まった集落の遺跡らしいが、蝦夷が秋田城を襲撃した878年の元慶の乱以降、陸奥で安部氏、出羽で清原氏、吉彦氏が台頭してくるまでの空白期間を埋める重要な資料となりそう。
元慶の乱で朝廷側について戦果を挙げた蝦夷の有力者「玉作宇奈麿」や「玉作正月麿」と同姓の名前が書かれた木簡が発見されてるので、鷹巣までは朝廷側だったのかなと。
玉作というと宮城の玉造を連想するのですが、そこからの移住かも知れぬ。
2005年02月01日
源義経の物語で金売り吉次は義経を奥州に導く商人として登場する。
義経記に登場する人物で、空想上の人物ともされる。
奥州から馬や金を持ってきて、都の珍しいものを買っていく設定になっている。
義経記の吉次は空想上の人物かもしれないが、そのモデルになった人物または団体は存在していた。それは、都の一角に平泉第を構え、摂関家や上皇に献金を行なっていた。
いわゆる平泉の出張所として、奥州への干渉を最小限にするための政治工作拠点ともなったと考えられている。
では何故「吉次」という名前で登場するのか。
吾妻鏡では人の名前を省略して書く場合がある。安藤次郎某だと安藤次といった具合に省略される。また、漢字に拘りがないのか誤記なのか、別の漢字をあてて書く場合もある。
同じ、理屈で吉次を考えると、吉弥侯部次郎某、吉彦次郎某、橘次郎某の場合も考え得るのだ。
吉弥侯部、吉彦は奈良時代から東北に存在する氏族で、後三年役の発端は、清原氏の婚礼に砂金を持参した吉彦秀武が長い時間待たされたことに怒り、兵をあげた為であり、吉彦氏は最終的に清衡、義家側につき、金沢城兵糧攻めを進言し勝利に大いに貢献している。
その後奥州藤原氏の配下になったとて、何の不思議はない。
橘氏は、その前の前九年役に源頼義、清原連合軍側に兄弟で参加している。清原氏に安倍氏の女性が再嫁してることから、橘氏も安倍氏の女性を迎えた可能性は高い。その繋がりで奥州藤原氏の家臣になる可能性はありうる。
他に炭焼き藤太伝説(宮城県金成町)などもある。炭は製鉄に欠かせない材料で、金属民出身説だ。
北上山地には吉次の弟吉六の伝説まである。
義経記や小説の吉次は、損得で動く商人みたいな描き方をされるが、奥州藤原氏の家臣だとすると、常盤御前が再嫁先の親戚筋である陸奥守藤原基成に牛若丸の保護を頼み込み、奥州藤原氏の命を受けて迎えに派遣されたと考えると、吉次も気品あふれたキャラクターになるやもしれぬ。
2005年01月27日
2005年01月23日
平時子が常盤が敵将である清盛の情けを受けることを批判するシーンがある。
武家の女なら…という下りがあるが、
常盤は宮中の雑仕女(まぁ今でいうOL)なわけであって、武家として育ったわけではない。
平時子のほうも、同じ平家でも清盛の系統の滝口の武士の平家(高見王‐高望王系)とは違い、むしろ公家的な性格の強い平氏(高棟王系)の生まれである。
「武家の女ならば」をいう筋ではない。
そもそも、当時の人に自刃するという概念は薄い。
服毒自殺や入水自殺はあったが、自刃の記録は非常に少ない。
ましてや女性が自刃をするというのは非常に珍しく、敵のもとに再嫁するのは当たり前。当時は女性も財産を持ち相続権を持っていたので、敵将に嫁ぐのは所領、財産も含めの再嫁である。
子供も元服前なら殺さず猶子(相続権を持たない養子。家族同然に育ち元服後家臣になる場合が多い)として育てられることが普通だった。
一族根絶やしの合戦は源平合戦からで、自刃が増えるのもそのあたり、平治合戦ではまだ過渡期だったのではないかと思う。
大河ドラマでの清盛のやり方はそういう意味で当たり前の行動なのである。
ただ、清盛が出世する前は、平時子の家系が清盛の家系より身分が上で大分出世に至るまでの後ろ盾だった関係上、時子の機嫌をうかがって常盤を藤原氏に再々嫁させ、遺児等を寺に入れたのだろう。
皮肉にも、その再々嫁先の藤原氏、陸奥守藤原基成(藤原秀衡の正室の父)の親戚である。奥州に義経が身を寄せたのは、鞍馬山で僧侶にもならず稚児を続け浮いた存在になり、また源氏の残党が集まり平家に目を付けられ処刑されることを恐れた、母常盤の最後の愛情で、藤原基成に夫を通じて取り成した結果だったのかもしれない。
武士というと、自刃、切腹というイメージがついて回るが、それは新しい時代、戦国末期の全国統一されたあたりからであり、その前は、武士は生き抜くためには何でもすることが多かったりする。
女性もしぶとく生き残って、遺児を育て上げ血筋の再興に再嫁先を利用する強かさを持っていた。
女性の血筋を調べると、なんでこの人とこの人が手を組むか、なんでこの兄弟が仲が悪いかが簡単に見えてくることがままある。
2004年12月21日
2004年12月17日
近江がなんで「おうみ」というか。
おうみ=あわうみ=淡海
なわけで琵琶湖の事をさしてます。「江」の漢字だけでも淡海、淡水湖の意味を持っています。(長江も)
なんで「近」の字がついたか?
もうひとつ「遠江」がありますが、これは浜名湖をさします。
都からみて、近いほうを、「近つ淡海」、遠くにある方を「遠つ淡海」
当時国名をすべて2文字にするのがお約束で、紀の国は紀伊とわざわざ2文字に増やしたり、毛の国は二つに別れ、上つ毛の国、下つ毛の国になり、毛が抜けて、上野、下野になったりしたのです。
近いほうの淡海もそれにならい「近江」となりましたが、読み方は「おうみ」だけになりました。
遠い方は「とおとうみ」とちゃんと言ってるのに変ですね〜。
米原通過しながら、こんな馬鹿な事を考えてる。